≪はじめに>
霊南坂教会でのスカウト活動は、1947年2月22日に始まり、今日まで神様のお守りのなか、教会関係者のご理解と多くの方々のお支えによって67年目の歩みを始めました。
この67年目の歩みは、育成母体である霊南坂教会134年の歴史と重なり、丁度教会の半分の道程を教会と共に歩ませていただいたことを感謝いたします。
私が港第1団(旧東京第4隊)の出身であることを知ると多くのスカウト仲間たちから"歴史ある団、また伝統のある団、あるいは教会の団ですね"と声をかけてくれます。同時に霊南坂教会と言うと"大きな教会、歴史のある教会、また伝統のある教会ですね"と羨ましがられます。
私は、この教会のこの団で育てられ、これまでスカウティングを続けてこられたことに心より感謝すると共に、このことに誇りを持っています。昨年65周年を機に団委員長などの現役を退かせていただきましたが、団では大変光栄なことに名誉団委員長に推され"Once a Scout. Always a Scout"の精神で霊南坂スカウトとの関わりを継続しています。
団の誕生とその歴史については、これまでにお話をしたり、書いたりしてきました。"歴史輝く霊南坂に"の歌詞にある団歌を含めて"歴史ある"ことについて<歴史とは、過去と現在の対話である>の英国の歴史家E.H.カーの言葉を通して共に学びました。また、「言葉の人」と言われるヴァイッゼッカー元ドイツ大統領が1985年5月8日に国会で行った敗戦40年の「荒れ野の40年」の演説の中での言葉"過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となります"。また"歴史を心に刻む、というのは、歴史における神のみ業を目のあたりに経験することであります"とキリスト者として示されていることを忘れてはいけません。
<伝統ある教会>
この機会に育成母体である霊南坂教会のことについて少し述べたいと思います。
港第1団、また霊南坂教会には"伝統ある"と言う言葉がよく付けられることに注視しなければなりません。
この"伝統ある"の言葉について「霊南坂教会100年史」(1979年10月)の中で"伝統ある教会"について次のように記述されています。
『我が国におけるキリスト教は、当初欧米の諸教派、諸教会の宣教師たちによってもたらされたが、それ自体すでに様々な教派的伝統や制度的枠組みをもつ、歴史的性格を帯びた教会を通して伝えられたことを意味する。
従って我が国においてキリスト教がどのように受け止められ、どのような発展過程を辿ってきたかを見ることは、わが国における諸教派の歴史を見ることと密接不離の関係にあると言えよう。そういう意味で、霊南坂教会100年の歴史は、ただ一つの教会の足どりに留まらず、わが国のキリスト教の軌跡を知る上においても重要な素材の一つであろう。
そこで先ず霊南坂教会100年の歴史を見る際の基本的視点が明らかにされなければならない、それは一口で言えば「伝統」ということである。』
<言い伝えられるべきもの>
『新約で「伝統」に相当する語は"パラドーシス"で、これは「言伝え」と翻訳されており、その意味は「手渡す」ことである。日本語では明治時代に"tradition"の訳語として「伝統」という言葉が作られたようであるが、これもまた「手に渡す」という語源からきたと言われている。しかし、今日ではこの「伝統」という言葉のもつ概念規定が必ずしも一様でないことは事実であり、その使い方によっては、これほど曖昧な言葉も珍らしいともいえる。
桑原武夫氏(注:仏文学者、評論家、京都大学名誉教授、文化勲章受章者)は『伝統と近代化』(1951年)という論文の中で「伝統とは」理念という意識的な面と、慣習という無意識的な面とを包括した概念であると言っている。
そのことをキリスト教にあてはめると、「言伝え」ということは理念的に捉えられる面と、慣習的に捉えられる面との双方を含むことになる。しかし本来、「言い伝えられるべきもの」は、単に外形的なものではなく、やはりその中味であるはずである。
このことを聖書的にみるならば「言(ことば)が肉体となって」この世に啓示された「福音」を指し示している。それがこの地上の教会を通して実現し、成就するとすれば、そこには何らかの媒体を通して象徴的に顕されているほかはない。そしてそのことが実は代々の教会が生命をかけて守り、正しく宣べ伝えていく唯一の拠り所となったものである。それがすなわち教会の伝統と呼ばれるものである。
従って「伝統」という語は、単に「言伝え」の総称というだけではなく、その実体を指示し、それに主体的に結合させていく原理という意味で、"tradition"よりは"identity"(結合の母体、独自性)の方がより妥当な言葉であろう。
このように「伝統」という言葉の使い方や意味・内容は千差万別である。そこで今われわれは「伝統」という用語の概念規定を、霊南坂教会の100年史の背景ともいうべき視点を明らかにするために、特に名付けることができないが、限定した意味で用いたいと願っている。(中略)
宗教改革者ルターの「キリストを運ぶところのものが使徒的である」という有名な言葉は「使徒的」という言葉の中心内容を示しているが、そのことが歴史上の教会において、ことにわれわれの霊南坂教会において、どのように内実化されていたか、すなわち教会は常に主イエス・キリストを正しく運び、生命をかけて守り、宣べ伝えてきたか、その意味で「伝統ある教会」であったかが問われなくてはなるまい。
134年を経た現在にあっても、この指摘を深く受け止めると共に教会に根差す霊南坂スカウトが創始者ベーデン・パウエル卿の信仰したキリスト教と彼が掲げた理念を正しく運び、生命をかけて守り、宣べ伝えてきたか、が強く問われています。
ここで世界と日本のキリスト教小史の概略を共に理解しておきたいと思います。
<世界のキリスト教>
キリスト教が誕生して約2,000年。ローマの社会の各層にキリスト教が広がると誤解と偏見に基づいて、それを撲滅しようとする迫害が起り、ローマ政府による最初の迫害は、西暦64年頃皇帝ネロによって行われました。
ローマ帝国がキリスト教を公認したのは313年で、国法により異教を禁止して国教としたのは379年。ローマ帝国は395年に東西に分裂し、更に476年に西ローマ帝国は北方から侵入したゲルマン民族により滅亡します。その結果キリスト教会はローマを中心とする西方教会とコンスタンティノポリスを中心とする東方教会とに分かれます。西方教会はローマ・カトリック教会、東方教会は東方正教会と呼ばれ、1054年には両教会は完全に分離し、東方教会はギリシャ語を用いることなどからギリシャ正(統)教会と言われ、その後この信仰はロシアに伝えられ、ロシア正教とに分かれます。
西方教会(ローマ・カトリック教会)は、国家の権力に対して教会の独立を守ることに努め、その後の中世のカトリック教会は、地上の権力を握ることになります。
このことで武力により異教徒を滅ぼそうとする十字軍の遠征と拷問による異端者に対する宗教裁判が始まります。
この後十字軍の失敗や教会内部の諸問題でローマ教皇の権力が失われ始め、また贅沢な暮し、道徳の退廃、財政の悪化などがあり、これを救済するために免罪符を発行しました。
マルティン・ルターによる「宗教改革」は、この免罪符に関する論争から始まり、1517年に免罪符は無効であるだけでなく信仰を堕落させるものとして95条の提案をヴィッテンベルグの教会の門に掲げて宗教改革の発端となりました。
宗教改革によってカトリックから分離した人を称してプロテスタント(新教徒)と呼ばれて新しい教会制度を確立しました。
プロテスタントの原理は<聖書のみ>、<信仰のみ>、<万人祭司>などによって特徴付けられています。プロテスタントはその後の時代を経てルター(ルーテル)派、改革派、バブテスト、そして聖公会、長老派、組合派、メソジストなどの諸会派に分かれます。
<キリスト教の伝来と布教>
最初に日本にキリスト教が伝えられたのは、学校で『ザビエルの〈以後よく(1549)〉伝わるキリスト教』と覚えた1549年(天文18年)、スペイン人のイエズス会修道士フランシスコ・ザビエルであり、鹿児島に上陸した後に平戸、山口、大分、京都など日本での布教は2年余りでした。
この時代は戦国時代であり、ローマ・カトリック教会各教派から派遣された修道士によって日本での布教が始まりました。1563年に九州では肥前大村の大村正純が平戸で洗礼を受け、大友義鎮、有馬晴信など、また京都では高山右近、小西行長などのキリシタン大名が現れると共に、修道士の布教によって一般民衆にも広がっていきました。
しかし、様々な経緯のなか1587年に豊臣秀吉によるキリシタン禁止令(バテレン〈宣教師〉の国外追放令)が出され、キリシタンに対する迫害が強くなります。
1590年に九州天草でキリシタンを主体とする百姓一揆が起り、また1597年には秀吉の命で、長崎においてフランシスコ派修道士6人と日本人少年3人を含む信徒20人が公開処刑され、「26聖人の殉教」として記念されています。
また、1611年には徳川家康によって「キリシタン禁止令」の高札が立てられ、京都の公会が壊されます。更に1614年の「追放令」を始めとする一連の禁教政策がすすめられます。1637年に農民・キリシタンを中心とした天草四郎を指導者として島原・天草に「島原の乱」と呼ばれる一揆が起きます。
1639年に第3代将軍家光は、この一揆後に厳しくキリスト教を禁じ、布教に関係あるポルトガル船の来航を禁止して鎖国が完成します。併せて各地でキリシタン狩りが行われ、九州各地では特に厳しい役人の監視の中でも信仰を守り通す者があり、「隠れキリシタン」と言われ、200年以上に亙って禁教時代のなかをキリスト教信仰を守り抜きました。
<宣教師たちの来日>
230年にわたる鎖国の後、1853年ペリー艦隊による黒船の来航、そして1858年幕府とハリスの間で結ばれた「日米修好通商条約」を最初の足がかりとして翌1859年に来日したプロテスタント(新教)の外国人宣教師たちは、公然とした伝導は許されぬまま聖書の邦訳、讃美歌の作成、日英辞典の編集、医療活動、教育活動などに携わりました。
明治初期の社会情勢としては、当時の日本における西洋文明に対する積極的な受け入れの風潮があり、これに応ずることができたのは、高度な知識と教育的見識をもった宣教師であり、また宣教医やキリスト教義教育家でした。
彼らは招かれて官立や公立の学校で教えたり、自ら私塾を開いて日本人の教育に携わり、学生、青年たちはそこで英語や洋学を学ぶうちにキリスト教を知り、教師との人格的な触れ合いを通してキリスト教の感化を受け、ついにキリスト教に入信するものが現われました。
宣教師たちが居住した地域にキリスト教が受容され、具体的には外国人居留地(函館、東京、横浜、大阪、主
長崎)、また招かれて活動した場所(札幌、弘前、静岡、京都、三田、岡山、熊本)が拠点となりました。
各教派のいかんを問わず宣教師たちが共通して祈り求めていたことは、キリスト教禁制の撤廃と宣教活動の自由であり、宣教師と共に活動したのが前記の宣教医と教育者たちでした。
そのいくつかを挙げると1859年に米国改革派教会宣教師C.Hフルベッキは、来日した長崎、佐賀で英語を教え、大隈重信、副島種臣らを育てます。同年に米国聖公会宣教師L.Mウイリアムズが長崎に、日本最初の主教となり50年にわたり伝道と教育に献身し、立教学院、立教女学院を創設します。
同じく米国長老派宣教医J.Cヘボンは横浜に診療所を開き、治療にあたると共にヘボン式ローマ字を普及し、1863年明治学院の先駆となるヘボン塾を横浜で開き、一致神学校を経て同学院を創設します。
<バンドの青年たち>
宣教師、宣教医、教育家たちの影響を得て、横浜、熊本、札幌などに相次いで青年たちがキリスト教信仰を得て活動を開始し、「バンド」と呼ばれます。
横浜では、S.R.ブラウンとJ.H.バラの改革派の宣教師たちにより植村正久、井深梶之介、押川方義らが受洗し、日本最初のプロテスタント教会である「日本基督公会」を設立。「公会」は教会と同義の言葉であり、後に植村正久ら日本基督教団の中核をなしたグループでもあります。
熊本では、熊本洋学校のアメリカ人教師L.L.ジェーンズの感化で、授業の傍らで聖書を自宅で講じ、霊南坂教会の創始者の一人である小崎弘道や金森通倫、海老名弾正、徳富猪一郎らがいました。このバンドはキリスト教界のみならず、実業、教育、官界、医療などの多分野に進出します。学生たちは創立間もない同志社英学校に入学し、新島襄やアメリカン・ボードの宣教師たちから指導を受けます。熊本バンドと会衆派系諸教会との繋がりが生れ、彼らの中から後に組合教会の指導者が輩出します。
札幌では、W.S.クラークの指導を受けた札幌農学校の生徒たち、彼を招いた開拓使長官の黒田清隆の反対を押し切ってキリスト教的人格教育を施し、その感化で1877年3月に1期生16名全員が信仰を表明し、続いて新渡戸稲造、内村鑑三ら2期生15名が加わり、後の無教会グループの源流となり、札幌バンドと呼ばれます。
<霊南坂教会の成り立ち>
霊南坂教会の設立年代と関連して特に注目しておかなければならないことがあり、それは霊南坂教会の発端となった1879年が、実は日本のプロテスタントの伝道が開始されて丁度20年後にあたり、また最初のプロテスタント教会が誕生して7年後に相当することであります。
1872年(明治5年)3月に日本最初のプロテスタント教会が横浜に設立され「横浜公会」となります。東京に最初の教会が設立されたのは1873年9月、長老派の教会で築地にある「築地新栄教会」で、1878年末(霊南坂教会が誕生するまでの)までの約5年間に約20の教会が設立されています。
霊南坂教会の設立に欠くことのできない要因があり、第一は熊本バンドから同志社に至る流れ、第二に関西を主な拠点とし会衆派の流れをくむアメリカン・ボードの影響下にあった初期の教会やその動き、第三にそれらと
関連して舞台を移し、そこで結成された「群羊社」の動向で、これらが相互に関連しながら霊南坂教会を生み出す歴史的な要因となります。
霊南坂教会は、初めから霊南坂教会という名称があったわけではありません。1879年(明治12年)12月13日、熊本県の熊本バンド(熊本洋学校の青年たち)出身で同志社英学校(現在の同志社大学の前身)第1回卒業生である小崎弘道牧師(当時若冠23才)と11名の青年たち(群羊社など)によって京橋区新肴町14番地(現在の銀座4丁目と数寄屋橋の中間の通りを約100メートル北寄りの辺り)の簿記夜学校の一室において教会設立式が行われ、「新肴町基督教会」の名称が付けられました。
教会が最初に突き当たった難問は、集会場所の問題であり、その仮集会場を確保するにあたり、先ず京橋区南鍛冶町(東京駅八重洲南口辺り、小崎牧師の居地)、そして京橋区元数寄屋町に移転。1882年4月には芝区新桜田町(虎ノ門から新橋に向かう右側)に移り、"流浪の旅"、"放浪の民"とは、この時代の教会を指している言葉であり、新桜田町に移ってからは「新桜田基督教会」と改名された。同年9月7日には麻布区仲ノ町にあった「日本基督教会」と合併し、新たに「東京第一基督教会」と改称して仲ノ町の「日本基督教会」の会堂を使用して再スタートします。
霊南坂教会が専用の会堂を初めて持ったのは、1886年(明治19年)8月1日。赤坂区溜池霊南坂町14番地と溜池榎坂町5番地3号の購入されていた土地に、木造瓦葺平屋建150uの新会堂が建設され、その献堂式が行われています。総工費は、机、椅子、オルガンその他の備品を含めて1,440円余りで、土地代金を含めると総額2,172円余りの事業で、教会員の募金とアメリカン・ボードの宣教師やその他の特別寄付を合せて1,672円余りであったため、不足金の約500円は借金をして1892年までの6年間かかって返済しています。そして5年後の1891年(明治24年)10月3日、東京第一基督教会は定期教会総会で「霊南坂教会」の名称に変更されました。
<鐘楼のある教会>
1947年2月、霊南坂教会においてスカウト活動が始まった草創期は、団歌にあるように"霊南坂に聳え立つ鐘楼"にあったスカウトルームを中心に活動をしていました。赤レンガの教会は、六本木の市三坂を溜池に向って下ると正面にその美しい姿がありました。その教会は写真などで見ますが、そのレプリカが現教会の礼拝堂のホワイエに置かれています。
1917年(大正6年)5月25日付の東京夕刊新聞によると、「新しくできた市内の最高塔」との見出しで以下のような記事が掲載されています。
『「浅草で一番高いのが十二階、その次は蔵前の煙突」と相場が決まっていたが、段々高い物と競ってきて、神田駿河台のニコライ堂が海面から計ると一番高いと言われていたのが、今度赤坂榎坂町5番地の高地の上に百余尺ある霊南坂教会なる五層楼ができたため、遂にこの教会が市内最高塔の月桂冠を獲得することになった。その地が市ヶ谷、目白の高台や愛宕山よりも高く、その上に高楼を建てたのだからひとたびこの高塔に昇って市街を瞰下すれば、東は下谷浅草は勿論、十二階は足の下にあって本所深川は一目に見える。西は青山の御所を初め、墓地から練兵場、南は芝公園から品川の台場の方まで何の遮る物もなく見晴らされ、北は四谷見附、九段坂の銅像から早稲田の涯まで見下ろすことができ、実に市内の大観をほしいままにすることができる。この天国に近い高塔は昨年(1916年)5月に起工し、牧師館、本館、附属館の3館で6万余円が全部寄付によったものである。開館するまでには3ケ月計りを要するとのことで大講堂(注:礼拝堂)は600人を容れることができ、館内には老人会、青年会、婦人会、日曜学校教室、夜学校室、幼稚園教室、牧師室、応接室、事務室、研究室、音楽室、食堂等十数種に分たれ、辰野金吾博士(注:旧東京駅、日本銀行の設計者)、葛西萬司博士の設計にかかるゴジック式の赤煉瓦で飾られる壮観なものである』。
そして9月15日(土)に新会堂献堂式が行われています。
教会の草創期を中心に歴史と建物について述べましたが、外形的ではなく中味である伝統(tradition)について改めて確認しておきたいと思います。
<tradition → 伝統>の翻訳
我が団や霊南坂教会の歴史から「伝統」について考えてきましたが、ある新聞の<翻訳語事情>のコラムの中で、東京大学斎藤希史教授(中国文学)の〔tradition → 伝統〕の解説は、大変興味深いので付記します。
『明治から大正にかけての英和辞典を見ると、traditionの訳語には「口伝」「伝説」もしくは「交付」「引渡し」などとあるのが一般的で、大きな辞書になると「慣習」や「因襲」も見られるが「伝統」という語はまず出てこない。そもそもtraditionはラテン語のtradere(渡す、伝える)に由来するから法律用語としての財産の引渡しも含め、伝えることや伝えられるものが語議の中心である。(中略)一方漢語としての「伝統」は、もっぱら血統や学統を伝えること、もしくは伝えられた血統や学統のことで、いわば系図の表すことのできるようなものであった。traditionと重なるところがないわけではないが、方向はかなり違う。系統という意識が強いのである。(注:いまの岩波漢語辞典では、歴史的に受け伝えてきた〈とくに精神面の〉思考・行動様式と解説)「tradition」と「伝統」が結びつくのは、大正も半ば以降のこと。自然主義に対する伝統主義、民族の伝統文化などのような言い回しが目立つことから推せば、守るべき価値のあるものであることを強調するために、単なる伝承や伝説を超えるものとして「伝統」が登場したと考えられる。昭和に入ってますます使われるようになるのも、日本の「伝統」が連綿と続くものとして強く意識される時代だったからだろう。現在でも「伝統」にともなう動詞は「守る」が多い。しかしtraditionの肝心なところは「伝える」ことにある。 "誰から伝わり"、"誰かに伝える"。そして"何を"、"どう伝えるか"は、いま生きている私たちに掛っている。』私たちは、このことを念頭に置いてその「伝統」は、伝えるに値するものか。血統や学統の「統」を守ることにこだわってしまい、本当に伝えなければならないものを見失っていないか。永い歴史をもつ教会にある我が団にあっては、大きなことであれ、小さなことであれ、この「伝統」の意味を真摯に受け止め、このことを決して忘れてはいけないと思料します。ともすれば昔のことを懐かしく思ったり、また昔の時代を慕わしく思ったりする懐古的に落ち入らないよう注意しなければなりません。
<継承すべきこと>
歴史の中から「伝統」を考え、「言伝え」また「手渡す」という語意が大切であること、そして「tradition」の翻訳を通して「伝統」の様々なことを知りました。
とくに「言い伝えられるべきもの」は、単に「外形的」なものでなく、その「中味」であることに注目しなければなりません。教会は、常に主イエス・キリストを正しく運び、生命をかけて守り、正しく宣べ伝えていたか、その意味で「伝統ある教会」であったかが問われています。
我が団は伝統ある団として、これらのことにどう取り組んできたのでしょうか。またこれからどのようにこれに取り組んでいくのかが重要な課題になります。
3年前に公益財団法人に移行したボーイスカウト日本連盟の定款に、〈目的〉として"この法人は、世界スカウト機構憲章に基づき日本におけるボーイスカウト運動を普及し、その運動を通じて青少年の優れた人格を形成し、かつ国際友愛精神の増進を図り、青少年健全育成に寄与することを目的とする"を定めています。その憲章の第1条〈定義〉では"スカウト運動は、創始者によって考案された目的、原理、方法および以下に述べる事項に従って、性別、出生、人種、信条による区別なく誰をも対象とした、青少年のための自発的で、非政治的な教育的運動である"としています。そして第2条の〈原理〉では、"スカウト運動の、全ての加盟員は「神へのつとめ」、「他へのつとめ」、「自分へのつとめ」の原理を反映し、各国スカウト連盟の文化や文明に適切な言語で表現され、世界機構によって承認されたスカウトの「ちかい」と「おきて」を順守することが要求され、またそれによって導かれる。スカウト運動の創始者によって当初考えられた「ちかい」と「おきて」は以下のものである。"と定め、その雛型が提示されています。
「伝統」として"伝えるもの"また"手渡すもの"が単に外見的(例えばスカウト教育法の一つである班制度)なことにこだわって、その中味である「神へのつとめ」、「他へのつとめ」、「自分へのつとめ」、この「三つのつとめ」が凝縮され具象化された「ちかい」や「おきて」の決意や実践を私たちスカウト関係者の日常の生活や活動から放棄してしまうことのないようにしたい。創始者の理念や憲章の中味を私たちが正しく運び、生命をかけて守り、正しく伝えられるか、その意味において我が団が「伝統ある団」であるか、が問われています。また同時に宣べ伝えられてきたことが、スカウト一人ひとりに受け継がれ、活かされているか、いまが検証するときであります。
<グローバリゼーションがすすむ中で 〜おわりにかえて〜>
グローバル化がすすむ時代にあって社会を生き抜く力を養うことに学校教育で重点的にその取り組みが進展しています。「ヒト」、「モノ」、「カネ」が国境を越えて自由な動きをするなかで、スカウト運動は国を超え
その憲章の第1条〈定義〉では"スカウト運動は、創始者によって考案された目的、原理、方法および以下に述べる事項に従って、性別、出生、人種、信条による区別なく誰をも対象とした、青少年のための自発的で、非政治的な教育的運動である"としています。そして第2条の〈原理〉では、"スカウト運動の、全ての加盟員は「神へのつとめ」、「他へのつとめ」、「自分へのつとめ」の原理を反映し、各国スカウト連盟の文化や文明に適切な言語で表現され、世界機かって創始者ベーデン・パウエル卿が第1次世界大戦後のスカウト運動の在り方を大きく変革し、平和のスカウト運動に転進したことも銘記しなければなりません。偏狭な視点でスカウト運動を捉えるのではなく、俯瞰的な視野に立つことがいま求められています。
これまでのボーイスカウト研修会や団会議でも変革に向けて「不易流行」や「温故知新」を取り上げてその言葉の持つ意義を確認してきました。
変革に関しては、外見的な「組織改革」や「制度改革」のレベルを超えて、変革の中味となるべき私たちの「意識改革」が一人ひとりに強く求められています。過去と現在、現在そして未来と続く歴史的な視点、その中での「伝統」の真の意義を捉えることが先ず必要であります。そして過去から現在、そして未来と続く時間の中で世界は常に変化を続けています。そしてその変化は、私たちの行動の結果としてもたらされます。つまり、現在の世界(社会)は過去の行動の結果であり、未来の世界(社会)は今日の私たちの行動によって作られていくものであります。より良い未来の世界(社会)を創造するためには、自らの行動の未来に対する責任を認識すると同時に、より積極的な変革をもたらす行動を選択し、実践していく能力を身につけていくことが必要であります。
グローバル化がすすむ社会で明日を生き抜く有為な青少年を教育し、また育成するスカウト運動に関わる一人として私たちは、継承と変革についても勇気をもっていま取り組むことが必要であると思います。
このとき"神よ、変えられるものを、変える勇気を。変えられないものを、受け入れる冷静さを。そして両者を識別する智恵を与え給え。"の米国、神学者ニーバーのこのことばを想い起し祈ります。
(参考資料)
霊南坂教会100年史
日本プロテスタント・キリスト教史 土肥昭夫
キリスト教ハンドブック(改訂版) 佐藤陽二